2019年も終わる、所感。

日本にいた頃のことも、日本で働いていた頃も遠い昔になってしまった。実際日本に帰ると自分は長い間離れていて、しかも自分の考え方すら若干変わってしまったのだろうと痛切することもある、それは人と話すときだろうか。日本とアメリカを比べても仕方がないのは分かっている元が違うのだから。しかし強いて言えば日本は細かく融通が利かない、昔通りの今までやってきた型にはめないとならない。一方でこの国はいい加減で大胆。これだけ言えば十分だろう。

細かくて融通が利かないということは自分自身も細かく対応し、おとなしくしていれば意外と居心地は良いものだ。しかし、いい加減で大胆というのは自分も大胆でいい加減になれば必ず『墓穴』を掘ることになる。そう考えればアメリカ人は大統領をはじめかなりの数で墓穴を掘っている人があまりにも多く、この国の将来が不安でならない。しかしアメリカ人は墓穴を掘っても鈍感なためにそうとは感じず、彼、彼女らは常に自分に肯定的で実にうらやましい生き方だ。たとえを挙げるならば日本の首相が現在のアメリカの大統領のように国民に叩かれ否定されたならば、日本では何らかの理由で既に退任しているだろう。しかしそこはアメリカ人に見習うべきこともある、それは『あまり考えずに図太く進む』という点だろう。

ここだけの話、今年と昨年を比べても何も変わりがなく、自分自身何も発展も成長もしていないのが分かる、というよりもこの世の仕組みである一年一年で区切るというのはあまりにも不自然で、どうしてこの世界は一年ごとに区切らなければならないのかと思う。一年で区切らずにいれば人のストレスもかなり減るだろう。ただ自分は何回この世の夏を過ごしたかという数え方に置き換えるだけでよしとすればいいのだが。。。

2018年もブログを通じお付き合いして頂き感謝の念で一杯である。 飾アメ筆者

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大麻入りエナジードリンクは効くか?

勉強、勉強、仕事、仕事。飯食って勉強の日々が続いている私だが、既に自分の余暇のことや趣味や、時々息抜きしてどこかに行こうなどという気持ちもなくなってしまい、自分はこのような感じで人生の最後まで終わりのない勉強と定年のない仕事を通じて死ぬのだろうと最近ある意味諦めている。正直なことをいえば日本にいた頃のほうが楽しくたのしみもそれなりにあったものだ。中年の入り口といわれる40代も終盤になり人生とはこれほどまでに変わるものだのだろうかとさえ感じる。

自宅にいれば気が散ってしまうために最近では図書館で大学の勉強をしている、大学の図書館と言いたいところであるが通信制であるためそのような場所は存在しないのが残念だ。私が住んでいるレイクウッド市にはいくつかの図書館があるが、私に行くところは毎回決まっていて勉強ブースも大体決めている。当然日本のような静かな図書館ではないので耳栓が必需品である。この図書館の近くには小さなガソリンスタンドがありネパール人の若い夫婦が経営している。女性の方にどこから来たの?と聞けば彼女は初めインドだと言ったのだが、私が日本人だというと実はネパール人だと答えた。アメリカではネパールよりもインドのほうが認知度が高いのかと感じたが、ネパールなどのコアで辺鄙なアジアはアメリカ人にとっては秘境だろうし聞いたことさえない国だろう、しかし日本人にとって悪いイメージはないし場所もおおよそ見当がつくのだが。

私はたまたま自分のハーブティーのお湯だけもらいに図書館から散歩がてらに寒いなか歩いて行ったのだが(アメリカではスタンドで無料で熱湯がもらえる)、偶然にもその小さなガソリンスタンド店で見慣れない缶飲料を見つけてしまった。その名も『ヘンプエナジードリンク』ヘンプとは『麻』の意味である。いかにもマリファナと言わないところがミソであるが、その女店員によればかなり『効く』とのことだ。そしてレジの横には腰の痛みに聞く大麻入りの飴が売っている。彼女はこれもかなり効くというが幸い私の腰は悪くない。コロラドもマリファナ解禁から数年が過ぎ本当にいろんなものが出回っている。私自身は当然『やらない』がこれを使うには知恵が要るし弱い人間であれば簡単に気持ちがよくなり疲れを感じなくなるので速攻で中毒になる。一番いい方法としては終末医療としての完全な医薬品(バイアグラのような)にするべきだろう。とにかく私はたかが一本のエナジードリンクに3ドル(315円)ほど出して早速試してみることにした。

ここだけの話、私はかなりの依存性体質で色んなことに中毒になりやすい人間である。このような危険な体質と知っていながらこのような飲み物を飲むのは時として危ないが、勉強に集中するため買うことを決意した。早速図書館に戻り椅子に座ると『プシュ!』と周りに遠慮しながら缶を開ける。すると今までに嗅いだことのない匂いがし、そっと口に運べはそれはまるで梅干しとペパーミントの香りを足した感じだ。考えてみればアメリカに来てからの間に色んなエナジードリンク系(以下エナドリ)を試し、パニックになったこともあった。指先の小刻みな震えや飲んだ後すぐに気が遠くなるような経験も含めアメリカには本当に多くの危険なドリンクがある。一番危険だったのは昼間一人でユタからコロラドに帰る途中、ハイウェー運転中にロックスターというエナドリを飲みすぎて運転中気を失いかけ事故に遭いそうになったことだろうか。そのような経験からこの大麻入りもかなり危険かなと感じた次第だ。そして一口、一口と喉に運び10分以内で飲み干してしまった。たかが350ミリ缶である、そうして時間が過ぎていった。

0分 飲んだ直後、当然変化なし。

15分経過 まだ変化なし。

25分経過 まだまだ変化なし

30分経過 え、もうそんなに過ぎたか?しかし変化なし。

1時間経過 あれ、おかしいな、でも変化なし。

2時間経過 金曜日5時の図書館閉館時間 おいおい、今だ何の変化もなし。

結局車に乗りどっと勉強疲れだけが出る。おーい、結局普段と変わりない。

この大いに期待した大麻入りエナドリは何の効果もなく、寒い寒い真っ赤なの夕焼けの下、私は車を飛ばし帰路に就いた。

人は常に反省が足りないのか。

自虐ではないのだが、今になって過去の自分を振り返れば、過去にもっと自分を顧みて反省していれば今違う自分があるようにも感じる。誰もがそう思うとは思わないが人間はあまりにも未熟な生き物だと痛切する。
ひとしきり反省し自分を顧みれば私は本来ここにいるはずではない、ここでこうして暮らしている筈ではないと思うかもしれないだろう。しかしその時はすでに時は遅しだ。あの時こうしていればこの仕事やこの家族とは全く違う自分のがあるかもしれなかった、と思うかもしれないが、時すでに遅しだろう。実際今でさえ、これでいいのかと急に不安になる自分がいるが。

最近、拉致監禁されていた日本人記者が解放されたというニュースを見た。彼は中東で約三年拉致監禁されていたというが、助かって良かったと感じるが殺されなかったのは彼はまだ人生の中で何か果たすべき使命が神から与えているのだろうと感じる。それはまた現地に赴くということなどではなく、彼の人生でやらなければならない事柄があるのだろう。しかしマスコミにおける『大人のいじめ』を見るのは耐えかねるものだ、謝れだの、責任はどこにあるなど、個人主義がない国ではすべての人間がまるで同じ檻の中で暮らしているように見える。考えてみれば全ての人間は自由に暮らしているようでも、ある意味拉致監禁されている。拉致は無いとしても時間、仕事、金銭の支払い。すべての面において現代社会はある意味『ゆるい監禁』である(結婚もゆるい拉致か)。私ですら初めてコロラドに来たときは車がなければ外出できない山のふもとで暮らしていた。これはゆるいどころではなく完全な妻による監禁だろうと今になって多少感じる。

キリスト教には反省という言葉以外に『悔い改め』という言葉がある。これは罪を犯したときに罪を償うという意味である(当然刑法にかかわるようなことは出頭しなければならない)。いわば小さな罪で誰かを傷つけたりした場合だろう。しかしそれには4つの手順がある。それはまず自分の罪を認める、許しを求める(告白)、罪を正す、二度と犯さない。わかりやすく無銭飲食で言えば、まず食い逃げを悪かったと心から思い認める。店主に正直に話し謝罪し許しを求める、無銭飲食代を払う、今後二度ともう食い逃げはしない。

なんだか話が妙な方向へいく感じがするのでこれで終わりとする。申し訳ない。

10月の所感

10月の最終日はハロウィンという催事で終わる。日本ではこの本来の意味を知らないコスプレ集団と西洋のお化けの習慣がミックスし問題を起こしているようだが特に日本には昔から続く多くの習慣があるというのに、今さら外国の風習まで取り入れる必要はないと強く感じる。それよりも地方に伝わる何百年も続いている文化や風習を絶やさずに先祖に残すべきだろうと、老いた人間が言うようなことを言ってしまった。

10月もあと数分で終わりだが、8月の頃と比べても何の変化もなく、ただただ勉強と仕事だけだろうか、そういえば最近近くにあるサウナ風呂へ初めて行った。20ドル(約2200円)のこの辺りでは昔からあるサウナのようだがレンガ造りの建物の中は迷路のようで広く食堂もありで、なかなか良い雰囲気を出している。詳しい話をしたいのだが写真を撮れないのが残念だ。これからは勉強、仕事、時々サウナ。という具合の暮らしをしていきたいものだ。このサウナはアメリカ人よりもロシア人や東欧人が圧倒的に多く集まる異世界である。まぁ自分も異星人のような存在だからうまく肌が合っていいのかも知れない。熱い熱いサウナの中にいる時も皆親切で冷えた水の入った桶をこのアジア系の私に持ってきてくれたり、目が合えば必ず軽く頭を前後に振り軽く会釈のようなしぐさをお互いするものだ。ここには人種の差も収入の差も肩書の差も何もない。当然このような男だけの部屋になれば『カップル』で来る組合員(とりあえず組合員と言おう、読者よ悟れ)もいるのだが彼らは一般的に控えめで行儀が良いので私は好きである。(好きであるといっても私も実は組合員であるという意味ではない、読者よ悟れ)。しかし大柄のロシア人連中はうるさく大笑いしお互い樫の木の枝(ヴぇニーク)で叩き合っている、それでいて私を見れば『あれーこれ日本人じゃないのか?』とロシア語で言っているのだがそれくらいの言葉は理解できる、理解できるんだょ。彼らはサウナから出れば脱衣場では備え付けの大きなバックギャモン(ゲーム)で楽しんでいる。私から見ればまるで彼らは自分の家でくつろいでいるかのようであり、ここでだけ彼らも自分の羽を伸ばせるのかもしれない。実は私自身『大』が付くほどのサウナ好きで日本でスーパー銭湯に行っても湯舟には浸からず、サウナと水風呂を行ったり来たりして半日過ごすようなこともするほどサウナが好きである。しかし20ドルというのは今の自分には手軽な価格ではない。せめて月一回行ければ良いほうだろう。

考えてみればアメリカには『サウナ文化』というものがなく、この寒いコロラドでも自宅にサウナなど聞いたことがない。しかしジャグジー(生温かい泡風呂)の人気はあるのだがサンダルのままで浸かり、実に不愉快、不衛生な代物である。私は誰かに家にジャグジーがあるから入っていかないか?と誘われても、丁重に断りその家の菌が移らないように留意している。ロシアではサウナに座る時でさえ、自分用の竹のスノコを置いて股間にばい菌が移らないように工夫している。また頭には厚手のフエルトの帽子をかぶり汗が顔に行くことを防いでいる、それでいて時々ヴェニークで体を叩いて刺激する。一般的にサウナで股間に菌を移された時の不快感さは文章にはできない、要するにいんきんたむし(股部白癬)であるが。

仕事がないときは一日15時間ほど勉強しているのだが、それでも時間が足りず苦労している。大学には障がい者用の特別配慮を申請したのだがそれは基本中間と最終テスト時間の延長ということだけである。しかしながらそのテスト時間の延長は実は私だけではなく何とクラス全員というおふざけぶりであり、通常1時間半のインターネットを使ったテスト時間が7時間という配慮ぶりであるが、私にとって時間が長ければ良いということではない、なぜなら学んだことを後になって思い出せない障害なのだから。障がい者申請時にできればオープンブック形式、要するに教科書を見ながらテストをすることをお願いしたのだが、それは『ありえない』という回答を大学側から受け取った、今考えれば笑ってしまうがそれも当然だろう。それならいっそのことカンニングでもすればいいとも思うが、そこはアメリカ。カンニングができないように動画と音声の録音を第三者機関を使いテスト行っている。受験者の目線を確認している。これはグーグルのエクステンションでhttps://proctorio.com/和名プロクトリオとでもいうべきこのエクステンションはなかなかよくできている。しかし抜け道はあるし、カンニングしようと思えば何でもできるだろうが、そんな気持ちさえ起らない。ちなみにアメリカ英語では試験のことをテストとは言わずイグザムExamと言う。この州立大学よりも難しいといわれているBYUという大学はなかなかハイソでインテリが多いのだが、それもクリスチャン大学の特色の一つと言うべきだろうか。

それでは読者の皆様、また11月にお会いしましょう。筆者

大学院での雇用が決まった自分への褒美

人生いろいろあるものだ。とにかくこの忙しい時にデンバーにある中医大学(修士課程)の『推拿2』クラスを受け持つことになったのだが、実はこの話は以前からそれなりに打診はあった。考えてみれば要するにこんなマニアックな伝統医学を教える人間が中西部には居ないのだ。私自身実際教えることに苦は無いのだが本業のビジネスも勉強も休んではいられない、しかしながらこれはたった週一回であるため最初は様子見であると言いたいところだが、おそらく将来的には漢方や鍼灸のツボのクラスもどうだ?と言われることは十分承知している、しかしこれ以上の勤務は基本的に無理と考えている。とにかく今のところは中国医学を勉強している修士課程のアメリカ人生徒に推拿を教えるだけである。しかし給与は信じられないほど安いのでここへ書く気にもならない、そのため人にはボランティアだと言うことにしている。まぁ一回の授業の報酬はちょっといいチーズバーガーとポテト、最後にバニラシェークで腹を満たせばそれで消費できてしまうと言えばいいだろうか。しかし整形外科手術や精神薬を避けられるこの推拿療法をアメリカで広めたいという気持ちの方が報酬よりも当然上だ。非常勤講師の勤務が決まったという言葉をタイトルへ持ってこようと考えたのだが、アメリカの教育現場では日本の非常勤講師のような年契約の仕事は特殊な場合を除いてないのが現実だ。よって問題を起こさないか自分から辞めない限り居れることになる。

小さな仕事でも普通このような状況では何か祝い事でもしたい気持ちだが、女房は授業初日の夜に『どうだった?、教えるの好き?』という質問だけで終わり、私も『うーん、どうかな、受け入れてはくれているね。』という答えだけで今回の仕事の話は全てが終了した。アメリカ女は日本人女性のように繊細なニュアンスは無いし質問攻めにもしない、すべてがイージーでラフである。ここではこんな生き方が全てだ。しかし自分的には納得せず、自分的には特別な日にしか食べない好きなメーカーのアイスクリームでも食べるか?という自分との対話で自分的には納得したのだが、実は今現在女房は砂糖を避けて暮らしている。ということは彼女が好きなものを私が食べていれば『どうしたの、それ!?』ということになる。一回ぐらいそう聞いて終わるならいいのだが、この女は食べ物への執着が人一倍であるため結局私は隠しながら食べることになる。という訳で今回も大きなアイスクリームを昼間に食べている。

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私はこのブルーバニーという会社のモノしか口にしない、なぜなら味に嫌味も無く無駄がないからだ、また私自身バニラアイスクリーム以外は食べない。おまけにこの味はその昔、暑い夏にたった数回だけ姉が作った手作りアイスの味に似ている。時にヒステリックで私にとっては服従するしかない年の離れた姉であった。こうやって今考えれば瞳が青く肌の白い女性を好きになるのも難しくない幼い頃の環境であったが姉という存在は居ないよりはマシであったろうか。しかしその思い出も今ではかなり薄らいでいる。写真のアイスで600円ほど、約1.4リットルはある。徳用アイスがこんなに安いのでは肥満体国になるのは当然だろう。しかし実際これは徳用アイスでも何でもなくこれが標準サイズでこれ以外の大きさでは売られていない。現実をいえばアメリカは広いため田舎の方では週一回しか買い物に行けず、全ての加工食品の大きさがデカいのである、しかしながらアメリカ人は食べることを途中で止められない弱い人達であるのでこの大きなアイスでも早ければ一日で平らげてしまうのだ。

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冷凍庫の奥の冷凍ミートボールの袋で隠しながら、食べられるときに備えて待機している。

 

コロラドのことを全く考えていないお菓子

私自身コロラド州の高地になれるまでに5年かかった。頭痛と吐き気、過度な運動によるめまい、異常なほどの喉の渇き、乾燥肌。
ここ1600mの高さでは海抜20m以内でしか暮らした経験のない筆者には過酷なところだ。しかしそれも昔の話しで今では慣れてしまった、いやそう信じたいものだ。
コロラドには多くの食べ物が流通されそれを買うことになるが、残念ながらまだまだコロラドの高地のことを考えずに包装されたものがある。例えばこのコーンスナックの袋だが、気圧のせいでパンパンである。店に並ぶ数もいっぱいまで膨らんだ袋のせいで通常10個入る棚が5個ほどしか置かれていない。チップスやありとあらゆるスナック菓子にその傾向がある。

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考えてみれば私の頭の中もこのような状況だったのだろうと考えれば少し恐怖すら感じるが、念を押しておくとすれば、日本や海外での中途半端な歯科治療でコロラドに来たならば気圧の関係で歯が痛くなりクラウンをはじめ被せモノは全て治療しなくてはならない、歯根に問題があればそこから腫れてくるのだ。これは非常にコストのかかる歯科治療でクラウン(銀歯)は実費で5-7万円は覚悟しておくべきだろう。
デンバーのちょっと中西部の都会に来るぐらいなら、シアトルやボストンなどの他の州の街に行くべきだろう。しかしここは人が良く水がうまい。何を尊重するかはあなた次第だろう。

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このスナック菓子はコーンパフという種類で代表的なものに”Pirate’s Booty”などがある。チートスもこの類だが、アメリカからトウモロコシを取れば何が残るだろうとも最近感じる。

 

Pirate's Booty Snack Puffs, Aged White Cheddar, 4 Ounce

Pirate’s Booty ©amazon

これはいける、単なるりんごジュース。

 

ここでの楽しみと言えば、食うことと飲むことぐらいしかない。いやそれで十分だろう。

男の人生は飲んで食って金を稼げばそれで充分。それ以上求めるな、それ以下になるな。

この濁ったりんごジュースは久しぶりのヒットだ。実にうまい2ドル44セントだ。

『アップルツリー』はリンゴの製品を発売している会社だがその中でもアップルソース(すりおろしりんご)が有名だ。ジュースの原料ハニークリスプ種は果実で食べるときは当たりはずれがあり、時季もズレると味は良くない、しかしジュースであればかなりいける。アメリカの果物はうまい、地質学者が言うにはそれは世界で一番新しく肥えた土地だからだそうだ。

左上キャッチフレーズ。

『100%天然ジュース、添加物なし、濃縮還元なし、シンプルで正直な単なるジュース』。

アメリカにお越しの際はお試しあれ!

中年男でもダチは必要。か?

正直アメリカの話が減ってきたのは認める。アメリカ中西部のコロラド州なんてところは特に凶悪な殺人ニュース以外は無いし、日本と比べての面白いか珍しい話ぐらいしかないのが現実だが、10年過ぎると日本のことも忘れてきてしまい何が新鮮で面白い話かと探すほどになる。

私は日本に帰った時、成田経由での東京では従兄か留学時代のダチとラーメンを食らいに行き、関空経由での大阪ではこれまた従兄と夜な夜なラーメンを食らいに行く。郷里に帰った時も高校時代のダチがいる。このオヤジとはファストフードに行ったり小さな悩みを聞いたり聞いてもらったりする。しかしながら男が成人し会社勤めになると、新しいダチなんて言うものは極端に減るか、つくらなくなる。余談だが御徒町の会社にいた頃も仕事が終われば同じフロアーで成田市から通っていた事務員の小林さんと上野の甘味処で餡蜜を食べたり上司の愚痴を聞いたものだった、美人の彼女は会社の中で誰が『安全パイ』で誰がそうでないと、私にしきりに話していたが私はその意味すら理解できない若い男だったのを思えている、結局自分は愚痴聞き役だったのだろう、あの頃自分は本当にまだ若かったのだ。

実際のところ残念ながら多くの男どもはその人間が自分にとって益があるか無いかでダチを選んだりダチになったり、または単なる知り合いから自分のダチにしようという考えが起きる。なんて悲しいことだろうか。損得で人を選ぶとかダチにするとかいう男は最低の部類に入るかもしれない。自分も若い頃は男女を含め溢れんばかりの飲み友達がいたものだが、今になれば多くのそのようなダチは単なる淋しさを紛らわすための道具であったような気もする。

幸いアメリカにはダチと言えるような友達はいない。アメリカで中年男二人で歩いていると70%はゲイカップルなのかと思われるがそれはこの国では当然だろう、それはいいとして。しかしそういうことではなく私にとって、妻の仕事の愚痴を聞いて、他愛もない妻の家族の話しなどでもう腹がいっぱいである。アメリカ女ひとりと言うものは約日本人3人のウエイトがある(要求が多い)。私自身としては時々現れる日本人カスタマーとの話だけで日本語での会話や精神的な満足感は十分得られる。

今これをお読みで友達が欲しいなんて考えている若い野郎は、そんなことではなくもっと自分を吟味し磨くべきだろうと感じる。要するに俺は本当はバカじゃないのかなぁ、だから誰も相手にしてくれないのかなってって深く考えるべきだってことょ。

いやいや、そうじゃなくて友達なんて要らねーってことに早く気づくべきだ。

コーンランチ

今日の昼はコーンランチにするとするか。以下はコーンランチの手順である。

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5本で2ドル(約250円)ほどのコーンを一人で食べるときは3本とする

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しかし茹で上がるまでに時間少しがかかるため、その前菜としてスーパーで買った生ハムとオリーブとチーズを少しつまむとするか

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もう遺伝子組み換えでも何でもいい、腹に入りさえすれば、そして少しでも腹の足しになれば

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水は少なく、塩は多めにが鉄則。水に浸らなくとも蓋をすれば蒸しあがるのだ。よく皮やひげもつけたままで茹でれば体に良いというがそれは本当でひげは漢方である、しかしながら熱く濡れたコーンの皮を剥ぐのはもっと面倒だ。

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アツアツのトウモロコシを一人でフーフーして3本食らい、今日の昼はおしまい也。

人は小説を読まなくても生きていけるか?

作り話。妄想。理想論。憧れ。夢の話。作者の人生経験。これらは全て小説の元となる事だろう。

私は小説と言うものを一切読まない、これは別に主義ではなくただ興味が無いからである。小説と言うのはその主人公や登場人物の気持ちと自分をオーバーラップさせ、比べて、こんな感じで生きようとか、こうなりたい、自分もそう思うなぁなどと感じ、欲求を解消させたり、ある種の満足を感じたり自分を吟味したり、自分の思いを小説の中で見出したりする。考えてみればある種の快感を味わえるだろうし、小説の中のライフスタイルや暮らし方をまねたり、主人公の生き方を参考にしたりして、これもまたある種の快感を得るには上等だろう。もう少し辛口でいうなら小説を読むことは知的なマスターベーションである

しかし、自分が既にもう誰も想像できないような人生を歩み、それなりの生き方をしてきたならば小説なんぞ(あえてなんぞと言おう)読まなくてもいいだろうし、読む価値すらないだろうし、作り話などバカらしくて読めないなどという気持ちも感じたりするだろう。金銭的以外にも社会的に重要な役割を果たした人間や過酷な戦争から帰ってきた人間や冒険家などが小説を読まないのも納得できる。この小説家と言う偉大な妄想家に対し、自身のベストセラーについての感想を尋ねたり自分の作品に対しての公演を依頼するのは極めて馬鹿げた事だろうと感じる、それはまるで昨日見た夢の説明をしてくれと言っているようなものだ。これでなぜ作家が政治家になってもうまくいかない理由が理解できる。小説家の理想論で政治をすすめても全く周りはついてこれないだろうし、やることは全て的外れなのだ。

原作と言われる小説があり、それをセリフにした脚本があり、監督がいて、それを演じる俳優達がいて、ドラマ、映画、観客、収入と続いていく。しかしこの小説さえ生まれなければ世界から本当に多くの分野が消えてその代わりの新しい労力や時間が生まれるだろう。実際アメリカにおける映画界の肉体関係や金銭にまつわるドロドロした世界を一般人が垣間見てしまえば、本当にこの世界はこの世に要るのかと疑いさえ感じるだろう。要は小説などで人間の妄想やこの世界をわざわざ文章で表さなくとも我々はこの十分価値のある現実と立ち向かい生きていくべきでこの世の中には人間が生きる上での多くの未解決の問題がありすぎる。また小説と言う道具で時代の文化や風潮を固定化してしまうことが他の人間のもっと自由な発想や世界を封じ込めてしまっていると感じるのも確かだ。

私は読書が趣味です。という人間を虐げているわけではない、ただそれよりももっと多くの現実の世界を見たり感じることがいいのではと少し感じるだけだ。毎日寝るまでベットの上で本を読み、若干の社会的コミュニケーション能力に欠ける青い目の女房の悪口でもない。

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しかしながら世界の村上さんには、この先まで粒がそろったコーンのように頑張って頂きたいと感じる次第だ。